『本当の私』なんて玉ねぎの皮を剥くようなもの
この記事を読んで、『本当の私』っていうのはいわゆるありの~ままの~をさすか、他人の評価と自己評価が激しくズレてるかの二通り(かその両方か)なんだよねーってことを思った。
どっちも覚えがあるので、思い出すと胸のあたりがウッってなるけど・・・。
ありの~ままの~は、本当はこうしたいのに周りが、とか環境が、とか自分以外に責任転嫁してる状態。
環境さえ変われば。
チャンスさえあれば。
周りの人がこうしてくれれば。
そしたらあたしは『本当の私』になれるのに。
・・・昔はこんなことも思ったけど、なんかある日唐突に「虚しいな」という気持ちになった。
変えようのない環境や、どう考えたって大きなマイナス要因が自分の周りにあることだってあるけども、じゃーそれらが変わるかって言われたら、きっと変わらないってことに気付いちゃったんだよね。
あと、それを言い訳にしてる自分にも。
今まで色々できなかったのは全部が全部環境のせいじゃなくて、自分がやらないからできないことがたくさんあった、っていうのを認めるのは時間がかかった。
自分以外のせいにする言い訳っていくらでも出てくるから。
サボるためにこれだけ言い訳を並べられるってすごいなあって自分でも呆れたくらい。
今でさえ、しんどい時はこういう考えになりやすい、すごくやっかいな奴です。
他人の評価と自己評価がズレてるのも、つきつめると言い訳だよねえ。
リラックスできてなかったから、疲れてたから、ど忘れしちゃったから・・・自分の中にさえ原因なんていくらでも探せるし、こんなにもたくさん理由があるし実は心の中ではこう思っていたのに周りの人は理解してくれない・・・って方向にもなりやすくて。
じゃーそうやってひたすら玉ねぎの皮を剥くみたいに言い訳を探し続けて何が残るかっていうと、そこに大事に大事にくるまれているのは『本当の私』なんかじゃなくて『無』じゃないかとあたしは思う。
本当はこう考えていた、っていうのも人に伝わらないんじゃ何も考えてないのと一緒だし。
ど忘れしちゃって、アガっちゃって、緊張しちゃって、体調管理がうまくいかなくて疲れちゃって、考えたことがうまく伝えられなくて・・・ってひたすら剥いてきたものこそが『本当の私』でしかない。
リンク先の記事に出てきた人は、複合タイプなんじゃないかなーって思う。
自分の中にもいっぱい言い訳見つけて、自分以外に責任転嫁して。
そうやっていくら言い訳を見つけても変わらない現実に鬱屈をためて、『本当の私』ってフレーズで自分以外が変わって欲しいと願う。
『本当の私』っていう夢はそりゃー美しくて魅力的だけど、オアシスの蜃気楼を見ながら歩きもせず、砂漠で干からびていくのと変わらないんだよね・・・。
たどり着きたかったらどんなに遠くてもそこを目指して足を動かすしかないし、あたしも地道に歩いてる最中です・・・。